大巌院四面石塔 附 石製水向
(県指定文化財・公開)
元和10年(1624)に雄誉霊巌上人が建立した名号石塔です。玄武岩で作られた総高219㎝のこの石塔は、4面すべてに刻字がされていることから四面石塔と呼ばれています。北面のインドの梵字に始まり、西面に中国の篆字、東面に朝鮮のハングル、南面に日本の和風漢字と、わが国まで仏教が伝来しきた国々の言葉で「南無阿弥陀仏」と名号が刻まれています。
このなかでハングルは李氏朝鮮第4代王世宗が1446年に公布した「訓民正音」という文字で書かれています。現在使用されているハングルのもととなった古い文字で、非常に短期間で消滅したため、本家の韓国でも近年までよく知られていなかったといわれています。
梵字で刻まれた「南無阿弥陀仏」の右側には、施主の山村茂兵が建誉超西信士および栄寿信女の逆修(生前供養)のために寄進したことが、左側には元和10年(1624)3月14日に、房州山下大網寺の大巌院檀蓮社雄誉が書き記したことが刻まれています。
(『館山市の文化財』より)
慈恩大師画像
(市指定文化財・非公開)
慈恩大師とは法相宗の開祖基(632~682) で、描いたのは月僊(1741~1809) という江戸時代の浄土宗の画僧です。また、讃は増上寺66 世慧厳(?~1860)によるものです。
月僊は桜井雪館、円山応挙に師事し画を学びました。月僊に関する展覧会は2018年に名古屋市博物館で開催されました。
木造阿弥陀如来坐像
(市指定文化財・公開)
大巌院の本尊で、像高214cmの寄木造り。内刳りを大きくとって薄いつくりに仕上げられています。
整ったまるい顔や、流れるような衣文の衣に包まれた均整のとれた体は、平安時代に流行した定朝様式をとり入れ、とくに両膝からかかる薄い布を通しての脚の表現などに、洗練された彫技が窺えます。
胎内の墨書銘から、京仏師是心が正徳5年(1715)に制作したもので、江戸時代中期の作であることがわかります。
大巌院は里見義康の帰依によって、雄誉上人が開いた寺で、当時の本尊は慶長8年(1603)に、弟子の霊存が奈良に遣わされて造像したという記録もあります。
(『館山市の文化財』より)
慶長十三年紀年肖像彫刻二軀
(市指定文化財・公開)
俗体の男女像で一具をなすものです。一木造りで内刳りがなされ、表面には胡粉彩色が施されています。
男性像の胎内に「安房国岡本住□年五十七才 慶長拾三年戊申霜月吉日 仏所□」の墨書銘があることから、江戸時代初頭の 1608年の制作であることがわかり、人形化が著しいものの、基準作として興味深いものです。
男性像は像高49㎝、女性像は像高40.7㎝。ともに坐して合掌する姿につくられ、男性像には丸に三つ引の紋があります。
岡本住の誰の姿であるか不明ですが、寺伝では里見忠義夫妻の授戒像とされています。
(『館山市の文化財』より)
絹本名号本尊
(市指定文化財・非公開)
浄土教において弥陀の名号は特別な意味をもっています。すなわち「南無阿弥陀仏」という名号は万徳の帰するところとされ、その功徳は最勝といわれます。このため名号を掛け軸に書いて本尊とし、配ることが行われました。
この名号本尊もその一つで、縦90.4㎝、横29.3㎝の絹本に、紺地金泥で六字の名号が書かれています。書いた人は近世初期の浄土宗の高僧で、後に知恩院32世となる雄誉霊巌上人です。上人は里見氏や徳川氏の篤い帰依を受け、里見義康の懇請により大巌院の開山に迎えられています。
(『館山市の文化財』より)
元應板碑
(市指定文化財・非公開)
板碑は板状の石を使い、卒塔婆の一種として発生した供養塔です。鎌倉時代におこり、ほぼ中世にかぎって造立されたという特色があり、埼玉県や千葉県を中心とする関東各県で盛んにつくられました。
元應板碑には、元応元年(1319)という銘が刻まれ、秩父産の緑泥片岩でつくられています。長さ38.3㎝、幅上部10.3㎝、下部11.6㎝、厚さ2.5㎝の小型の武蔵式板碑で、稲地区にある稲村城跡の通称五輪様といわれるところから出土し、大巌院に保管されています。
県内の他地域に比べると、安房地方には板碑が極端に少なく、元應板碑のほかには、南房総市延命寺、鋸南町信福寺、鴨川市東覚寺などで確認されているのみです。
(『館山市の文化財』より)
十二因縁論
(市指定文化財・非公開)
浄意菩薩の作とされる『十二因縁論』は人間の生死の相を知見して、それから解脱することが説かれているものです。
この一巻は麻紙に1行20字で書かれ、押界(白界)となっています。裏面に奈良西塔院(大安寺)の「伝法塔院」という朱印があることから、現存する天平写経のひとつであることが理解されます。また、巻末の「信」という朱印も、この十二因縁論が、奈良時代の写経であることを示しています。
寺伝によれば、開山雄誉霊巌上人の時、江戸増上寺より贈られたものだといわれています。また古写経研究の第一人者としても知られる知恩院院75世の養鸕徹定上人は安政年間に大巌院を訪れ、この『十二因縁論』が西塔院において写経されたものと判じています。
(『館山市の文化財』より)
雄誉上人墓
(市指定文化財・公開)
大巌院開山の雄誉霊巌上人(1554~1641)は、字は松風、号を檀蓮社雄誉といいます。駿河国(静岡県)で生まれ、初め沼津浄運寺の増誉上人について出家し、肇叡と名乗ります。やがて下総国生実の大巌寺に行き、貞把上人に師事して霊巌と改名しました。
霊巌上人は諸国で数多くの寺院の建立や、布教をするなど大活躍しました。皇室の親任が厚く参内して後水尾天皇に進講したり、また徳川家からも篤く帰依を受けて、家康・秀忠・家光に親しく法談を行っています。後に知恩院32世となった上人の遺骨は分骨され、大巌院をはじめ各地のゆかりの寺々に埋葬されています。
(『館山市の文化財』より)